学校に戻ってきたら知らない人ばかりだ。
M3というのはやはり仮の身分というか、学校に在籍しつつも外を目指していないとダメなようだ。学校はもう下の世代に占領されてしまった。
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帰りがけにブエノスアイレスを
観光した。
前に「典型的なヨーロッパの地方都市で見るものがない」と書いたけれど、謝ります。意外と楽しかった。滞在した場所が経済の中心地で目抜き通りもつまらなかったので「ダメだな」と思っていたけれど、旧市街はすばらしい賑わいだった。
1km以上あるホコ天はフリマとタンゴで埋め尽くされていて、観光用でもあるけれど、こんなに楽しい場所は
東京にも
ニューヨークにもない。ホコ天は人類の財産だよ。日本人は都市を楽しむ能力が著しく低いので、ぜひ視察したほうがいいと思う。
今回の旅は、ニューヨークを少し覗いて、あとはラテンを肌で感じる日々であった。しかし旅行中に同時に東京も体感していた。というのは村上春樹の『
アンダーグラウンド』を読んでいたからだ。必読書とは思っていたが分厚かったので、今まで読んでいなかった。本は‥‥村上春樹という人の「大きさ」に触れ、何度も目頭を熱くさせながら読んだ。
日本(東京?)は「クレーム
最小化」の都市だと思う。たとえば最近激化する禁煙
キャンペーンをみればわかる。しかし、過半数のクレームだけではなく、少数のクレームに対してもびくびくしている。あらゆる不快さが
キレイに隠蔽されており、快適なサービスが行き渡っている。非常に暮らしやすい。危機管理もすべて社会が担うようになっている。
不快なもの、あるいは不快の可能性を孕んだものが世の中から消える弊害は大きいと僕は考える。というのは、不快の可能性があるものとは、同時に幸福の可能性も持っているからだ。
たとえば「会話」というものは、その最たるものである。「会話」は日本では親しい仲でしか機能しないようにできている。コンビニや
レストランで店員と会話することはまれだ。なぜならそこにはサービス提供者と
消費者という明確な区分があり、消費者はクレームという武器によってつねに優位に立っているからだ。「会話」が人を(消費者を)不快な気分にさせる可能性がある以上、それはサービス受給の場においては「ないほうが安全」ということになってしまう。これは世界的に見たら異常なことだ。
日本固有の問題には「
生産と消費の乖離」があるだろうし「公共という概念が根付いていない」があるだろうと思う。
また、あたりまえだが、平和でキレイでよくコントロールされている国では、個人の危機管理能力−というか生存する力・自分で考える力が弱くなってしまうのも無理はない。
posted by kaz_pokito at 16:46| パリ |
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